2017年8月11日金曜日

おめでとう ありがとう


同じ建物にある中華料理屋さんが、この日曜日からリニューアルオープンすることになった。
 
「今日検査がおわって、ほっとした。」と、いつもの笑顔で話してくれるコウちゃん。
事務所に戻ってきた齋藤くんに報告すると、そっかいよいよだね、と。お盆中だからお客さんいないんじゃないのかな、お盆明けてからの方がいいんじゃないのかな、とソワソワし始めた。いいんだよ、きっと。キッチンの使い勝手とか今までと違うから、少しずつの方がいいんだよきっと、と返す。
 
話しながら、あ!と気づいたことがあった。
もしかしたら、わたしたちの原動力の中の決して少なくない部分に、コウちゃんの、マスターの、ゆうかちゃんの、少し押しのつよい愛みたいなものが含まれているかもしれない。いや、絶対そうだ。
 
「えりちゃん、コーヒーゼリーとマンゴープリン、どっちがいい?」
と、やさしく尋ねるのではなく、食べるでしょ!という勢いと共に話しかけてくれるとか、
暑い厨房で重い鍋を振って、ヘロヘロになった感じそのままに手を振ってくれるとか、
そういうことが元気をくれて、
 
例えば困りごとで駆け込んできた方のところに、仕事としてできることはないけど何かできることがあるかもしれないから行ってみようとか、
バス停近くのベンチで休む方に使ってもらえるように置いておいたうちわが、時々ごっそりなくなっても気にしないとか、
そういうことを後押ししてくれる気がする。
たぶん、わたしたちだけでは、ここまでできなかったかも、ということが思い浮かぶ。
 
「こうやって、気づかないうちにもらっているものがたくさんあるんだなぁ」
「気づかないからこそ、じわじわ効いてくるのかもって気もする」
「誰かに何かをしてあげたいって思うときは、すでにその相手からもっとたくさんのものをもらっている、ってあの映画で言ってたでしょ。」
「でも、してもらったからしてあげる、っていうのとはまた違うんだもんねぇ」
 
何はともあれ、またあの花椒がきいた大盛の麻婆豆腐丼が食べられるのがうれしい。
リニューアルオープン、おめでとうございます。

2017年7月18日火曜日

1日のはじまり

朝ごはんを食べながら、昨日話せなかったケアの話や今日訪問するお宅の気になっていることを話す。
話すことで整理ができることもあるし、それをわたしたちが解決するのではないこともあるので、状況に対して覚悟ができたり肝が据わったりする。


朝いちばんのケアに行く前に、事務所の前にベンチを出す。
早起きできたときには近くの大きな公園に散歩に行くので、その時に出す。
早く出しておかないと。朝早くからベンチに座れると思ってバス停まで歩いてきてくれる人がいるので。
最近は暑いから、近所のうどん屋さんが貸してくれている白くて大きなパラソルを出す。
加えて、国分寺市の「涼み処」として頂いていた団扇を出していたのだけど(商店会帳からもらった状差しに入れて)、最近ごっそりとなくなってしまったので、今は出していない。
ご近所さんに余っている団扇がないか聞いてみよう。
時間があれば植物に水をやりたいところだけど、ちょっと時間が遅れそうだから、あとでにさせてもらう。


「訪問中」の看板を出して、いざ出陣。
移動中、ご主人がひとりで奥様の介護をしているお宅の前を通る。
草が茂っていて中の様子は見えないけど、ゴミ出してるかな、自転車(ご主人の愛車)はあるかなと、ちらりと目をやる。

パン屋さんの運搬用の車を見かけたり、前の仕事仲間のお宅の前を通ったり(運がいいと、幼稚園のお迎えのバス待ちのタイミングと合う)、たまにばったり知り合いを見つけて「おーはーよー」と大きな声だけ出して通り過ぎる。


そして、お宅に到着。
「今日は暑いね~」
「今日はけっこう涼しいね」
「雨で大変だったでしょう」
ありふれた会話のようだけど、
その日の天気と、ご家族と、おばあちゃんと、わたしが組み合わさってできる、
その時だけのあいさつ。

「あ、この間、ご主人自転車になにかしてくださいました?」
「あぁ。たまには自転車にもあげないとね」とスプレーを吹きかける仕草をされる。チェーンにオイルを挿してくださったようだ。
「帰り道、すごく走りやすかった。ぜんぜん違くてびっくりして。」
「そうよ、お父さんはこうね、手先が器用だからね。」
「器用ですよね」


あぁ、今日が始まっている。

2017年7月10日月曜日

特別


このお仕事を始めたばかりの時は、「この方はずいぶん個性的だな~!」と思うことがあったような気がするけど、最近はそれが積み重なった結果「どの方も個性的」「どの方も特別だ!」と言葉そのまんまの感じで感じている。

 

金子みすゞやSMAPが歌っていたのを聞いた時には、ある種うつくしく清く正しいイメージがあった言葉だけど、今自分が感じているのはもっと土臭い、「同じってことはまったくないな」「ふつうなんてない。みんなが特別って、その通りだしそれしかない」と確信できる。

 

 

わたしの髪の毛は、すぐにぺしゃんとしてしまうし、小学生のころには「三つ編みパーマ」(夜寝るときに髪を三つ編みにして、朝ほどく)をやったこともあったけど、どんなにきつく三つ編みをしても学校に着くころにはストンと元の髪に戻っていた。

外国の子どものようなクリンクリンの、とまではいかなくても、くせ毛っていいなぁというあこがれはずっとずっとあって、いつだったか美容師さんにそう話した。

そしたら、「みんなくせ毛なんですよ。川上さん(旧姓です)の髪の毛だって癖ありますよ」ときっぱり言われた。「くせのない髪の毛なんてありません」と。

 

今だったらなるほどと思える。「うちはふつうでしょ。ふつうじゃないお宅にあこがれるわー」と訪問先で言われたら、きっとそう思うと思う。

 

 

この、みんな特別な「当り前」を生きているところに、今まで縁もゆかりもなかったわたしたちが出向いで、ケアの合間にお話してくださることを聞いていると、映画を観ているような気持ちになる。なんでみんなこんなドラマチックな人生を歩んでいるんだろう。

 

 

ある日。

Jさん、ケアマネの話だと、もうすぐグループホームに入られるかもしれない。もしかしたらこれが最後の訪問になるのかな、と思っていた日。

Jさんはいつもの話をしてくれた。いつもの話を初めてのように繰り返してくれる。決め台詞もあって、こちらとしては読み聞かせを楽しみに待つ子どものような気持ちで。

男の子が土手に仕掛けを作ってエビを釣ったという話の時。餌のフナムシを仕掛けの中に入れるシーンになったら突然、

「フナムシだよ。あんた触ったことある~?」とJさんが両手を水をすくうような形にして目の前に差し出してきた。

「ないない、ないです~!きゃ~!」と身体を避けて、2人で大笑い。

 

ひとつだけの人生の、ある場面に連れて行ってもらう、もしくはその物語を見せてもらうような時間は、何物にも代えがたい。

 

 

デイの車のお迎えが来て、スタッフの方と乗り込んで扉が閉まり。エアコンをかけている車の窓を開けて、スタッフの方が

「あのね~!Jさんがあなたのこと大好き~って!」

 

これにはたまげて、「わたしもです」とか言えばよかったのに「あら~」としか言えなかった。

2017年6月6日火曜日

3年目のはじまりに

10日に1度はブログを書こうと(実は)秘かにに思っていたのに、
嘘のように、あっという間に6月がやってきてしまいました。

そして、
6月1日で、訪問介護ことりは2歳になりました。
いつも支えてくださるみなさま、ありがとうございます。

「本当に、どうやって続いてきたのか不思議で仕方ないね。」
「やっぱり助けてもらってるから、としか言いようがないね」
というのが、1時間前のわたしたちの会話です。

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国分寺の東元町で、こうやって事業所をはじめたときに、
うちの代表の齋藤鳥が「自分を自由にしてくれたまちに、恩返しがしたい」というようなことを言っていた。
齋藤は「自由」ということにとても敏感だから、
そのときの感動はわたしが想像するよりももっともっと大きなものだったのだと思うし、
そのことはケアの中身にも影響しているように思う。


わたし自身の記憶を「自由」という言葉で検索すると、
大学生時代の風景が浮かんでくる。
哲学の講義と、ゼミで出会ったとある本がそこにある。

どちらも、解きほぐしたり、広げたり、縮めたり、潜ったり・・・
「ここもほぐすのか!」と、ドキドキし続けていた。
肩書きを取り払って「言葉」と出会うような感覚。


そのワクワクは、「訪問介護」の中にも。

はじめましての瞬間から始まり、
ある時、やっと「関係」のスタート地点に立たせてもらえる時が来る。
先入観や思い込み、自分自身の考え方の癖がポロポロと剥がされ、
その方と改めて「出会う」瞬間があり。

身体を使って、移動して関わって、人と出逢っては別れ、
ぐおんぐおんと心を揺さぶられるような経験をしていると、
人は人に生かされている、と感じる。

そこにあるのは命だから、本気で向かい合うしかない。
その時のドキドキは、「自由」に近いと思う。
わたしにとっての自由は、
そこにしかない答えを探すことを許されている、のと、ほとんど同じような気がしている。

(え)

2017年5月11日木曜日

銭湯のある町


訪問介護ことりのある東元町商店会には、「桃の湯」という銭湯がある。
 
この間は、道の向こうから手を振ってくれたNさんがやけに爽やかだったので、そう呼びかけたら「銭湯帰りだからよ」とこだまのように返してくれた。ちなみに時刻は17時。まだ明るい町の景色の中に湯上りのこざっぱりとした女性が歩いている、というのはいいなぁと見とれてしまった。
そのまま横断歩道を渡ってことりに寄ってくださり、たまたま遊びに来ていた小学生と齋藤と3人であーだこーだとおしゃべりが始まった。
 
わたしはその姿をしっかりと焼き付けて、3人を残して買い出しへ。のはずが、事務所を出てすぐに空からムクドリの「落し物」が降ってきて、見事に手の甲へ着地!急ぐ用事でもなかったので、事務所に手を洗いに戻った。
 
わたしが戻ってきたことにも気づかずに話している、小学生と40歳と人生の達人。
手を洗っているところで、やっと気づいてもらえた。
 
40歳齋藤「なに、どうしたの?」
小学生「えりちゃーん、もう帰ってきたの~?」
わたし「「いやいや、“運”がついちゃったんだよ。ほら。」
N達人「あら~、いいことあるわね~」
小学生「なに~、なんでいいことあるの?」
わたし「ほんとに、いいことありますね。楽しみです。」
小学生「なんでなんで?運がついたらなんでいいことがあるの?」
N達人「運がつくってことなんだよ。」
40歳齋藤「何色だった?」
小学生「ねー、なんでー?!」
 
気を取り直して、もう一度出掛けて、帰ってきたときには静かな事務所に戻っていた。
 
 
「このマンションの1階に銭湯があったらいいのにね、って話してたのよ。」
お一人暮らしの方が、お友だちと話していたことを教えてくださった。
1人分のお湯を沸かすのは面倒だしもったいない。何かあったときにどうしようという不安もある。だから「マンションの1階に銭湯」。
なんだかすごく面白そうな話だなと思ったし、不安なことばかり考えてしまうとおっしゃっていた方から出てきたアイデアだったから、尚のことワクワクした。「それ、すごくいいですね!」
 
まだそのきれいなマンションの1階に銭湯ができる目途は立っていないから、「日が長くなったら桃の湯に行ってみようとは思ってるんだけど…」とおっしゃるその方に、お一人で不安があるようだったら、銭湯お供します!と言ってみた。

2017年4月18日火曜日

器の中身を捨ててみる


相手が友だちなら、家族なら、こういう時には自分がどうふるまうか想像がつく。
だけど、仕事であり、支援する立場にあるときにどんな風にそこにいればよかったんだろう。
ケアの最中に、そんな出来事があった。
 
相手が欲しい言葉は分かっているけど、自分はそれを言いたくない。
支援する立場として、言うべきではないと思っている。
でも、それを言えば、相手が満足するのはわかっている。
 
 
家に帰ってからも、胸のあたりにべったりと何か貼りついている。
上司でもある夫に相談をする。
 
結局は、自分の思いどおりでないことに、わたしも苛ついているのだろうか。
相手に対して、こうふるまうべきだとか、そんな考え方をするべきではないと思っているのだろうか。
 
家の新聞を整理していたら、数日前の「折々のことば」(朝日新聞のコラム)が目に留まった。
 
 
基本的に、自分の器を大きくすることはできません。
出口治明
 
器はもともとの容量が決まっている。入れたいものがあるなら、その中に入っていたこだわりを捨てて、空きを作ればいい。ということのようだった。
 
 
わたしの人間としての器なんて本当にちっぽけだ。それなのに、そこに「べき」がたくさん入っていた。自分に対しても、相手に対しても。
ふと胸のあたりに意識を向けてみる。風通しが悪そうだな、という感じがする。ボタンをいくつ外すか、という話ではない。ガチガチに固まっていて、閉じている感じがするなぁ。

2017年4月14日金曜日

表現


「月曜日は、また新人さんを連れてきます。」と言うと、
Gさんは苦笑い。
「そこをどうか、よろしくお願いします。」と頭を下げると、
呆れたような笑顔を見せてくれて、2人で笑った。
 
この間の同行(どうこう。1人でケアに入れるようになるまで、ヘルパーが2人体制でケアに入り、手順やポイントなどを教え、伝えること)の時のことを思い出してみる。
 
「でも…わたしもあんな感じだったかなぁと思うんです、初め。」
そういうと、Gさんが眉毛をあげてこちらを見る。
「あのあと、事務所に戻ったら、あの子、“自分のことばかりに一生懸命になっていた。Gさんが寒いんじゃないかとか、そういうことを見れていなかった”って言ってました。」
うんうん、とGさんが頷く。
「だから、そうそう、そのとおりって。」
 
「人を育てるっていうのは、学ぶことが多いです。初心に戻るというか、そういうことがたくさんある。そういう意味で、わたしはとっても勉強になってるんです。」
と言って、はたと気づく。“自分のことばかりに一生懸命になっている自分”。
「とはいえ、Gさんが安心してお風呂に入れるというのが一番大事で。彼女がそこに辿り着くには…もう少しお時間を!」
というと、Gさんが大きく笑った。
 
 
脳梗塞の後遺症でことばを思うように操れないGさんが、「黙って」話を聞いてくれたことがとてもありがたくて、「また月曜日に!」とお宅を後にした。
 
やりとりしているのは言葉だけじゃない、と身体感覚で教えてくれたのはGさんだ。表情や視線の方向、発する空気…そういうこと全部で表現している。わたしたちヘルパーはリハビリ職ではないので、言葉を要求しなくていい。それ以外の表現をしっかりと待つこと、「見る」こと、それを受け取ってこちらのボールを投げ返すこと、そういうことが耳を澄ませることにつながっている。そんな気がしている。